「教会の礼拝」にいらっしゃいませんか!

 

教会入り口近く、道路に面している「教会案内掲示板」をご覧の方もいらっしゃるでしょうか。

 その「教会案内掲示板」から「教会の玄関」までの距離は、大人の歩数でわずか10歩です。このわずか10歩の距離が、多くの方にはなかなか遠いのです。わずか5、6メートルですが、玄関に入るのには、それなりの勇気が必要です。例外はあります。新聞配達や郵便配達の方、それに宅配業者さんたちは全く平気で玄関脇の訪問チャイムのボタンを押されますが…。

 はじめての方にとっては、そうではありません。極端にいえば「太平洋の対岸」ほども離れているかもしれません。私もそうでした。ちょっとした勇気をもって玄関までおいでください。心からご歓迎致します。

 自家用車でお出での方、ご安心ください。教会庭が駐車場になっています。

 地図案内にある「ツルハ」さんからは「教会裏」がすぐソコに見えますが、用水路があるため、どうしても回り道になります。この「教会周辺地図-1」をご参照ください。


どんな人たちがいるの?

 

 ごく、普通の人たちです。ただ言えることは、「これまでの人生の中で、イエス・キリストとの出会いを経験した人たち」です。こういうと、なにか特異な宗教体験をした、という誤解を与えますが、そういう意味ではなく、「私にはイエス・キリストの救いが必要だ。」と気づいた経験を持った人たちのことです。

 「一度は聖書というものを読んでみたい」、という人たちも集われます。

 大きな試練に直面している方が、それをきっかけに教会や聖書に解決を求めて方もいらっしゃいます。

 年齢・性別・背景もまったく異なっている方々が集われるところが教会です。


 玄関を入ると、「ようこそご来会くださいました。」と、教会員が席にご案内いたします。聖書・讃美歌・「週報」(プログラム掲載)が手渡されます。もちろんご持参された聖書があれば、それでも結構です。聖書や讃美歌など渡されただけで戸惑われるでしょう。教会員がご一緒しますからご安心ください。

 「お祈り」の時には、軽く目を閉じて黙祷のつもりで結構です。お祈りの締めくくりには、「アーメン」と一同の唱和があります。「アーメン」とは、「そのお祈りに私も同意しています。」という世界共通の表現です。


やがて、牧師の「説教」が始まります。


 牧師は講壇から聖書のお話をいたします。

 初めての方々のため、聖書や讃美歌、そしてお話の内容もプロジェクターでスクリーンに投影されます。おおよそ40分前後です。

 もしもこの礼拝の会衆席にイエスさまのお弟子さんであるペテロやパウロが座っておられたらどうでしょう。なによりもイエス・キリストご自身が、講壇から語られる牧師のお話に耳を傾けておられたらどうでしょうか。

 牧師である私の願いは、語っている私自身の拙劣さはともかく、お伝えしている「メッセージ」については、「そう、間違いない。その通り。」と、言ってもらえる福音を語りたいのです。

 会衆席の皆さんが、講壇から語られる聖書のお話から、日々の歩みに希望と慰めが与えられ、力強く生かされていったら、これに勝る喜びはありません。

 「メッセージ」とは、「伝達される使信」のことを意味します。それは講壇で語る者の主張ではありません。牧師は「福音の真理の伝達者」の役割を果たすことになります。



お金はいらないの?


 なかなか話題にしずらいのは、「お金はいらないの?」という、もっともな疑問です。それが神社仏閣に詣でる一般的な感覚でしょう。

 お答えいたします。「お金はいりません。」

 中には「それではちょっと気が済まない」という人もいらっしゃいます。

 礼拝の最後に、献金係の人が会衆席に周ってきます。献金は「クリスチャンが感謝の気持ちをあらわすもの」です。全く自由です。ましてはじめて来会された人は戸惑いますでしょう。係の方はそのことをよく心得ています。ご安心ください。


 最後に牧師による「祝祷」がささげられます。これは神さまの祝福を祈る定型文の祈りで、「アーメン」で締めくくられます。これで礼拝プログラムは終了です。


 いかがでしたか。「ああ、来て良かった!」「私の帰るべきところはここかもしれない。」と、思われたとすれば、これにまさる幸いはありません。


 信仰の強要などもありません。「もっとお話しを聞きたい。」と思われたら、どうぞその旨をお伝えください。また引き続きご来会ください。